未来はあまりに遠いし、おれはもう待てない

SF小説やプログラミングの話題を中心とするフジ・ナカハラのブログ

SF創作講座第5回を終えて

一昨日、ゲンロン 大森望 SF創作講座 第3期 の第5回講評会が開催された。 今回のゲスト講師は、法月綸太郎氏と、講談社の都丸尚史氏だ。

第5回の課題は「来たるべき読者のための「初めてのSF」」というもので、27編の梗概が提出された。 私は『無形の民』というタイトルのものを書いた。 この講座では、審査員が提出された梗概の中から3編(今回は例外的に4編)を選出し、選ばれた受講生は次回までに実作を書くことになっている。 今回、私の作品は選出されなかった。

また、第4回課題「拘束下で書きなさい」で選出された4編と自主提出5編の実作講評も行われ、10点+未提出者14名分の14点の計24点が各作品に割り振られた。 詳細な結果や各作品の内容については、課題ページを参照してほしい。 今回、私は実作を提出していない。

課題について

今回の課題「来たるべき読者のための「初めてのSF」」は、次のようなものである。

まだSFを読んだことのない読者のために、「初めてのSF」を書くこと

ジャンル小説特有のお約束が通用しない白紙の読者を念頭に置いて、もっとこんな小説を読みたいと思わせるような、入門的で吸引力のある新作SFを書いてほしい

この中で私を悩ませたのは、「入門的」という部分である。 「SF」と一口にいっても幅広く、どういったものを「入門的」と呼ぶかは人によって大きく異なる。

そこで、次の一文をヒントにすることにした。

ビギナーだった頃の目が覚めるような気持ちは忘れないでください

提出したアピール文にも書いたが、私の初めて読んだSF小説ジョージ・オーウェル『一九八四年』である。 『一九八四年』に出会うまで、私はSFをくだらないものだと思っていた。 実在しない「科学」のもと、ロボットが人間並みの知性を持ったり、宇宙を自由に駆け巡ったり、時間を簡単に超えていったりするものだと。 科学をこじつけに使ってお茶を濁すくらいなら、はじめからファンタジーだと言い切ったほうがずっと良いと考えていたのである。

しかし、SFはエンタメの一ジャンルとはいえ、娯楽に振り切ったものばかりではない。 『一九八四年』は、全体主義批判をテーマに据えており、実際、世界に大きな影響を与えた。 ディストピアSFなんかは、たいていそういった現実に根ざした問題意識をもとに書かれている。 また、ロボットものや宇宙もの・時間もののSFも、ギミック自体は描こうとしているテーマを効果的に演出するための道具でしかない場合が多い。

私がSFに魅力を感じるのは、私たちの生きる現実がもつ思いもよらない可能性を、物語の強烈な説得力でもって気づかせてくれるところである。 そこで、そんなSFの魅力を読者に少しでも感じてもらえるようなものを書くことを今回の課題の目標にした。

ただ、私の考える「初めてのSF」は、出題者の法月綸太郎氏の意図とは少し違ったらしい。法月氏は端的にいうとジュヴナイルを期待していたようだ。

「初めてのSF」といっても、小中学生向けのジュヴナイルや取っつきやすいショートショートに限りません

とあったので、ジュヴナイルは期待を超えず評価されにくいと考えたのだが、どうやらこれはむしろヒントだったらしい……。

講評について

都丸氏に丸と三角の中間くらいという評価をいただいた。 前半はよかったが、後半にワクワクしなかったとのこと。 講評が始まる直前に、受講生のやまね @yamane233 さんにも、主人公が最後にとった行動のスケールが小さくてもったいないという評をいただいており、同じような印象を抱いた人が多かったんだろうなという感じがした。

実際、今回の梗概はかなり行き当たりばったりで書いていて、最後の二段落を書く直前に筆がパタリと止まってしまっていた。 その時点で書こうとしていたことはだいたい書いていて、そこから物語をどうやって終わらせればいいかわからなくなったのである。 字数もすでにオーバーしていたので、できるだけ短く無理矢理に終わらせにいった感は否めない。 そして、そういったごまかしはやはり読者に見抜かれてしまう。